2011年08月18日

アンソロジー本「けもも」とか五百羅漢展とかギリシャ展とか恐竜展とか実話怪談とかひきこもりとか

8月29日発売のコミックリュウアンソロジー本「けもも」に、私こと村山慶はなんと三作品も描いております(といっても内二本はすっごく短いですけど)。
人外スキーな方も百合好きな方もリュウ復刊が待てない方もそうでない方もよろしくお願いします!


さて、このけもも原稿がかなり余裕のない長丁場だったので、その間にいろいろ書こうとして書く暇がなかったことを一気に書いてしまおうかと。
(といってもコミティア原稿を早く仕上げないといけませんし、けもも促販ペーパーも早く仕上げないといけないのですが)。

さて、書こうと思っていたのは
・五百羅漢展
・ギリシャ展
・恐竜展
・実話怪談
・ひきこもり
についてです。

まず五百羅漢展。江戸東京博物館で七月初めまでやってたやつですね。狩野一信という、あまり聞きなれない画家で、でもまあ狩野ですからいわゆる狩野派の絵なんだろうなと思っていました。当初は一応押さえておくか、丁度東京に行く用もあるし他の観に行きたい展覧会はまだだし、程度の興味しかなかったのです。で、見ると、巧い。すごく巧い。いわゆる西洋画のデッサンが取れる上手さではありませんが、狩野派日本絵画としての技術の高さは素人目にもはっきりと分かります。伝統的な狩野派仕上げだけではなくて、西洋風な陰影をつけたもの、朦朧とした感じで線ではなく量感で見せるようにした絵などもあり、狩野派に、江戸時代にこんな斬新な絵があったのかと思っていると実は江戸末期の人なのですね。西洋画の知識も十分あったのでしょう(といっても知ってるのと描けるのとでは天地の開きがありますが)。なんといっても注目すべきは百枚のうち最後の二枚(四枚だったかな?)。一信の体調悪化・死去で弟子や奥さんが代りに仕上げたらしいのですが、その弟子の絵と、師匠のとの余りの技量の差は、見ていて可哀相になるくらいです。まさに不肖の弟子。もっとも弟子の方が当時の絵師の一般レベルなのかもしれませんが。
一信の画力の高さ以外に思ったのは、芸術(広義の意味で)の才能や技量は、巧い絵が描ける能力それだけではないということです。もちろん絵描きなのですから巧く絵が描けるのは当然です。それプラス、根気というか、単調な(しかし技量の要る、神経を使う)作業を延々長時間毎日こなす能力が多分必要なのです。
例えばベートーベンが天才だと言いますが、曲がりなりにもプロの音楽家の父に付きっきりで幼時から英才教育され、祖父は宮廷楽団長(それはつまり他の一流の音楽家への伝手があることを意味します)、楽器一つ満足にこなせない私でもそんな環境なら結構弾けるようになりますよ、きっと。けれどベートーベンを真に天才たらしめたのは、そこまでスパルタ教育を強いられながらその後も音楽に打ち込む人間だったという事です。普通なら嫌になることがならない(あるいは耐えられる)性質をもっていたからです。それがいうなれば才能じゃないでしょうか。
って、五百羅漢展からだいぶ話がずれちゃいましたけど。しかもよく言われるありふれた話ですし(でも教育関係の人で分かってないっぽい人が多いのはどうしたことなのでしょう)。


ギリシャ展。西洋美術館で今もまだやってるやつです。円盤を投げる人のような、いわゆるギリシャ彫刻だと思っている写実性の高い作品以外にも、もっと古い、定型的な形や土偶にも似た更に古いものまでを展示しています。
やはりこれを見て思うのは、ギリシャ彫刻が今私たちが思い描いている写実性の高いものであったのは、本当が末期のごく短い期間だったということです。つまり、紀元前五世紀位、ペルシャ戦争後からいわゆる写実性の高い像が作られ始めた訳です。その前には姿勢も直立不動だったり造形もまだそこまで写実的ではありません。で。マケドニアによるギリシャ征服が紀元前四世紀、ローマによって完全に独立を失うのがに紀元前二世紀くらいの話(だったと思います、確か)なので、大体紀元前九世紀辺りからはじまる古代ギリシャ文明の、本当に最後の一世紀くらいで生み出されたなのです。で、そこでは何が起こっていたかと言うと、せいぜい小地主(=市民。今の市民とは意味合いが違います)の共同体だった都市国家(ポリス)のなかに、アテネに代表されるのような巨大な経済を持つものが生まれるのです。ペルシアの侵攻を退けたアテネは他のポリスが持てないような巨大な艦隊を持ち(戦艦の維持費は後世の私たちが考えるより遥かにかかります。現代の原子力空母並みと思ってもらえればいいのかも)、無産市民のように重装歩兵の装備も賄えず(もっとも高級スポーツカー並みの金額がかかるのですが)国防に貢献出来ない、つまり国家に対して何の発言権もなかったような人々が艦隊の要員として国政を左右するようになります。いや、従来市民の任務であった、つまりアマチュアが主だった軍事すらイフィクラテスのような傭兵隊長や巨大な攻城兵器が活躍する専門性の高い分野になってきます。恐らくその民主(血統のような神話性の排除)と経済(モノをモノとして正確に計ろうとする性根)そして専門性が、従来の神話的な抽象性から離れて写実的な像を生みだしたのでしょう。
そしてさらに、続くローマが、ギリシャ末期の写実性をこれぞギリシャと認識し、かつそのローマがギリシャとは比較にならないほどの勢力を持ち歴史や同時代の社会の広範な部分に影響を及ぼしたからこそ、私たちは写実的な像だけをギリシャ彫刻と認識してしまうことになったのでしょう。
ちなみに以前、古代ローマ彫刻展にもいったことがあります。古代の彫刻家の精巧な技術に舌を巻きつつも、どこか薄っぺらな感じがしたものです。子供にはローマのリアル像の方が受けるだろうけど、今の私なら仏像の方がいいと。でもその本家本元のギリシャ彫刻は、どこか仏像と通じるものがあるような気がします。表そうとしているのが写実性ではなくその精神、というとまた的外れかもしれませんが、なんらかのストレートに形象出来ない、人体に仮託するしかない概念、だからでしょうか。ギリシャ彫刻への評価が私の中で再度高まりました。


国立科学博物館の恐竜展は最初の一週間に行きました。というのも、中生代の鳥類の化石で、その時しか展示されない実物があったからです。
とはいえ、実のところそこまで化石や骨格に詳しくもないので、折角の実物化石をみても十分に感嘆する、というところまではいかなかったのですが。そうなりたいものです。
あとティラノサウルスの前足の役割についての新説も骨格標本付きで展示されていました。
私は腹側を覆っている肋骨の様なもの(腹骨?)の方に興味をひかれました。こんなの少し前までの骨格図には無かったと思うのですが……。古生物学はぼやぼやしてるとすぐ知識が時代遅れになるので油断できません。そういえばこの展示会の題目は、古い恐竜の復元図と現在の古生物学とがどれ位違ってるかを示すことにありました。そう、古生物学好きにはよく知られていますが、もうブロントサウルスはいません(体と頭骨が別々の種であることが分かったので)。雷竜達が自重を軽減するため始終水に浸かっていたという説は否定され、ティラノサウルスのような獣脚類はゴジラのような直立スタイルではなく前傾姿勢で尾を持ちあげています。
特別展をみたあとは一般展示の古生物コーナーへ。時間が許す限り古い哺乳類の骨格をひたすらスケッチしました。なんていうか、古い哺乳類は今の洗練に至る前の古い体制の名残があって、そのレトロな感じがいいのです。その中で、古代ゾウの頭骨を下から見上げしみじみ思いました。頭の殆どを占めるのは顎です。つまるところ生き物は食事を通す管に見えてくるのです。その中で、脳の比重が以上に高い、つまり摂食器官以外が殆どを占めるのではない生き物である人間を、過去のヨーロッパ人が特別だとみなしたのは、なんとなく分かるのです。しかし哺乳類が脳、特に大脳と言う、身体維持や消化には何の役割も果たさないくせにものすごくカロリーを喰らう一種のシミュレーション器官を発達させたのも別に精神云々の為ではなく個体と種族の維持、つまり摂食の効率化を高めるためですから、まあ広義では身体と言うのは殆ど摂食の為の器官と言っても間違いではないと思います。


実話怪談、私は朗読系も最近よく聞いています。というか、実話怪談師と呼ばれる(自称する)方達もネタがなくなってきたか興味が薄れたか世相が世知辛く本業が忙しいか、あまり放送しなくなってきたように見受けられます。あと完全に掲示板書きこみの常連さんたちとの馴れ合いがメインになってしまったり。きちんとキャラクター化されたゲストとのかけあいならともかく見知らない人達と馴れ合われても……。そんななかで実話怪談系の掲示板を朗読するタイプの番組は放送もコンスタントですし、聞き苦しいタイプの放送もあまりないので、流し聴きですが結構聴くのです。
で思ったのは、短い話はやはり面白くないですね。創作やあるいはエッセイでは短くとも切れ味鋭い話は多いです。ですが実話怪談となると、短い話はこんな幽霊をみました、こんな不思議なことがありました、というだけで、ディティールも荒いので、はあそうですかと流すのみです。やはり展開への興味ということでは長編が面白いのです。
かといって、実話怪談系のストーリーは殆ど決まっています。短いのは先ほど書いたように”見ました“”ありました“、で長編は大抵@肝試し等で何かの禁忌に触れた→A呪いや怪異が実現した→B霊能力者に頼る→C霊能力者による解決、です。しかしこのテンプレ通りの話でも面白いものと面白くない、創作バレバレなものがあります。で、何が面白くない面白いを分けるのか、の考察をしてみたいと思います。
まずは、ディティールですね。面白いのは、ディティールが細かいし面白いです。祀ってあるのが手足のない巫女だったり、いかにもありそうなしかし聞いたことのない名前の妖怪だったり、単純に呪いの人形でも形状が独特だったり。場所の様子や小道具、人物の様子も、まるで見てきたかのように描写されますし、そういった道具立ても大体独特で面白いのが多いのです。逆に、ストーリーに力を入れて描写がなおざりなのは、いかにも頭で考えた感が強くてイマイチです。あからさまに用語が間違っていたり知識がなさすぎるのもよくないです。
悪い例として挙げてみるのは「邪霊の巣窟」という作品です。ストーリーは@兄やその友人達(皆子供)と管理者のいない神社に肝試しにいくAそこは邪霊の巣窟で兄の友人たちは死亡、兄と自分は霊能者のお陰で辛くも助かるB数年後、いかすけないクラスメートから同じ神社で肝試しの誘いを受けるC断るが彼女がいってしまうD助けを求める電話がかかる。霊能者達と助けに行くE悪霊達を追い払い彼女を助けるがいかすけないクラスメートは死亡F彼女と結婚後娘が出来るが、その娘が神社にさらわれるG再度霊能者とお祓いする。実はいかすけないクラスメートは語り手を恨んで呪いをかけるため自殺していてこいつが黒幕だったという真実があかされる、という凝ったものです(といっても基本的にはテンプレ通りの展開なのですが、三重に天丼するんですね)。さて、この作品の何がまずかったか。まず最初に「神社の住職」とかいきなり知識が間違ってる。言うまでもないですが神社は神主で住職はお寺です。オカルトに詳しくない人でもこの程度は知ってる人も多いと思いますし、もちろん作中の人物にオカルト知識が殆どない、という設定はアリ(むしろ推奨)だと思うのですが、この作品には退魔師のようなオカルト専門家が出てくるのです。要は余り知識のない人が頭で作った話というのがあからさまなのです。
後の方で霊魂の消滅、というのがあって、もう魂が輪廻転生しないことを語り手が嘆くシーンがあったりもするのですが、インド本来の仏教では輪廻転生から外れることが最大の目的ですし、逆に神道は元々輪廻転生はないです(今では神仏習合してごっちゃにあってますが)。流石にこの辺りは高校生の世界史レベルくらいの知識だと思うのですが、作者ちゃんと勉強してるのでしょうか。たまに学校の勉強を馬鹿にする人もいますが、案外教科書とかよく出来てますよ(といってもゆとり前しか知りませんが。自分で書いてみるとよく分かります。数学とか本当によく出来てますし、国語は確かに知らしめたい名作ぞろいです)。
更に、ディティールがまったく明瞭でない、という欠点もあります。退魔師や祓うといった行為にしても、どんな装束でどのような行為をしたのかさっぱり記述されていません。オカルトにどっぷり浸った人なら日常行為なのかもしれませんが、語り手は住職と神主の区別もつかない素人(という態)なのです。ものすごく印象に残っているはずなのです。むしろ行われている行為がお祓いなのかなんなのかも分からないくらいでしょう。逆に優れた作品では、単に霊能力者といってもどんな風貌でどんな服装なのか、どんなところに住んでいるのかなどの描写がまるで見ていたかのように細かいです。むしろ実話怪談なのですから、そういう五感に直結したところこそ詳しくなくてはいけないのです。省略できるのは、日常の本当にありふれたことだけなのです。
あとは、娘がすごく霊感が優れているから是非退魔師にと誘われる、といった陳腐なエピソードやたらくどく感傷的な表現があったりする、やたら実話を強調するというのもありますが、上記二点、知識の余りの不確かさとディティールの不明瞭にくらべれば、取るに足らない欠点でしょう。筋の凝り方は、なまじ大きな欠点を抱えているために頭で考えた創作、という萎えさせる印象を大きくしています。
で、これちょっと思ったのは、漫画のネームに近いなということです。退魔師やお祓いなども絵で描けば一目了然です。作者は、基本的なオカルト知識(一般常識に近いのも含めて)が欠けてるわりにはオカルトっぽい作品には慣れ親しんでるっぽいですし、ディティールの甘さを考えると漫画家志望の子ではないかなと推測してます。でも漫画を描く技量や時間がなかったりする(といっても技量があれば時間はどうとでもなりますから結局は技量なのですが)から小説書いてるのでは、と思ったのです。でも漫画と小説は隣接していても違うものなのです。
最後に、私、実話怪談は創作であるということを前提に話してますけど、まあそうですよね。


ひきこもり。「ひきこもり」といっても部屋に閉じこもって出れない、怠けてるとかそういう次元ではないもう完全に神経症な晩年のハワード・ヒューズの様な人だけを指すのではなくて、今では普通に会社行って働いてる人まで含まれちゃうようですね。つまり非リア充以外はひきこもりってことなんでしょうか。私も含まれちゃいますね。
って、定義の話はさておき、私が話題にしたいのは「安心ひきこもりライフ」(勝山実著)です。
この本でのひきこもりは、部屋から出れない神経症の人ではなくて、外にも遊びにいっちゃうしバイトや支援団体の作業所にもいけちゃう、どちらかというとニートに近い(というかそのままの)存在です。
率直にいって、腹が立つ本です。もっとも何もしない人が学校の暗記教育が嫌になった、才能がない、社会に絶望したとのたまうのはまあ常道ですし(でこういう人ほど実際には元々器用で頭が良くて羨むほど体格が良くてモノが良くできるのです。本当に劣っていたら是が非でも勝ちたい優れたいと思うはずですし、そもそも挫折しようがないのです)、身近な人間にそんなこと言われたら腹が立ちますが何の関わりあいもない人間のいうことですからまあ聞き流せます。引きこもり支援の実態など普通には知られないことも書いてあり、全体にユーモアもあって楽しく読めます。
が、許せないのは、精神障害を詐称して障害年金を貰っていることです。詐称して、といっても医師の診断がありますから法的な詐欺ではないのですが、障害があるという診断書を出してくれる医者を探してそのように仕向けてるのですからこれどう考えても仮病でしょう。で、本当に働けない人に支払われる筈の金を、五体満足のこの人が奪っているのです。平均よりずっと収入の低い私が納めた税金を、です。この手のヒトが嫌になるのは、そういった掠奪行為をしておいて、いかにも自分が弱者です、といった顔をすることです。どう見ても奪っているのはあなた達で、奪われてるのは私じゃないですか。どちらが弱者なのかと。
と、ここまで書いて思ったのは、この本自体が生活保護削減などの根回しなんじゃないかと深読みできるなと思ったこと。働けるのに働かないこんな怠けものが貰ってますよ、もう要らないですよね、という世論を作り出すための仕掛け、ということは、まあ、ないでしょうけど(そこまでいったら陰謀論です)。ちなみに本屋の棚的には陰謀論やスピリチュアル系の、いわゆる電波本の場所に積まれてました。
posted by 村山慶 at 10:26| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年08月14日

夏コミ参加します

スペースは三日目(8/14) 東フー37b「Night-Marchen」です。といっても新刊はビラしかないですが。
posted by 村山慶 at 09:07| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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